バイオ茶の宮崎上水園

創業明治二十九年 バイオ茶の宮崎上水園

STORY 宮崎上水園のお茶づくり 「急がず、休まず、怠らず」

Vol.02

三代目を受け継ぐまで

宮崎上水園三代目、上水漸は5人兄弟の末っ子として生まれました。
子どもの頃から音楽が好き。中学・高校と吹奏楽部でトランペットを担当し、警察や自衛隊、消防などの音楽隊に入る夢を持っていましたが、兄がすでに家を離れていたこともあり、二代目である父・肇から跡を継ぐよう説得されました。

早くに母を亡くし、叔父である早助に育てられた父。幼い頃の骨膜炎で右足が不自由だったため、出征する人たちから「肇、あとはよろしく頼む」と思いを託されていました。地域への、並並ならぬ思いを推し量り、漸は茶業を受け継ぐ道を選びました。

茶業の手伝いは子どもの頃から、あたりまえのようにやってきました。
16歳で自動三輪免許を取得。製茶時期は学校の昼休みに茶畑へ向かい、生葉を工場まで運んでいました。仕事に来ていた人は誰も免許を持たなかったので、自分がやるしかない。都城農業高校3年のときには、授業の一環として行われた農作物や加工品のコンテストにて、お茶の加工に取り組み、加工の部で優秀賞をいただきました。茶葉を粉にして練り、味噌作りに使うミンチにかけ、乾燥させて約1cmに揃える。これをお湯や水に入れて飲む。味はともかく、茶葉すべてを飲み切ることへの挑戦でした。受賞もさることながら、茶葉と真剣に向き合ったことで、茶業への思いが強まりました。

茶業をやるからには、静岡の現場が見てみたい。高校3年の夏休みには、鹿児島出身で静岡県立茶業試験場製造課長だった、森園市二さんや宮崎県立試験場の紹介で、特別研修生として受け入れてもらいました。茶農家・本杉尚夫さんのもとで、また、本杉さんのお兄さんが勤める国立茶業試験場でも実地研修を受けました。

折しも1964年(昭和39)、東京五輪の年です。東海道新幹線が開通し、本杉さん家族に試走の見学に連れて行ってもらいましたが、まさに機械が大型化されていった時代。県立茶業試験場では、初めて見る大型機械に驚きました。これまでは1回の加工に生葉約16キロ、それが60〜120キロに増量。しかも丁寧に揉まれ、きめ細かなお茶になる……、予想を上回る出来栄えでした。このひと夏もまた、茶業人生においてたいへん有意義なものでした。

実は研修中、学校から「戻ってこい」と電話がありました。「宮崎県内を巡る聖火リレースタート地点のファンファーレ隊に推薦された。合宿をするから帰ってこい」と。一瞬、気持ちは揺らぎましたが、音楽の道を断って、茶業を継ぐために来たのだからと、断りました。その後、1992年(平成4)バルセロナ五輪で、上水園のバイオ茶が日本人マラソン選手の給水ドリンクに選ばれて脚光を浴びるとは。今、振り返っても驚きです。


静岡研修にて製茶機の扱い方を学ぶ
茶摘みの時期は、自動三輪車で通学し、昼休みは茶畑から工場へ生葉を運んだ。